桜草の危機と飛躍

   -試論・桜草栽培史の一断面-
                                

                                        山原 茂

桜草栽培史を考えるとき、それが歴史である以上、現在利用できる資料につき資料批判を行った上で、それは再構成されなければならない。資料といえどその時代の制約はまぬがれないからである。そして資料と資料の空白は、合理的な類推によって埋めていく必要がある。

 桜草に関する資料はそんなに多くはない。それは桜草が愛好された度合いに比例している。江戸期にはいくつもの園芸書に取り上げられたが、桜草の専著としては『桜草作伝法』があるのみで、しかも写本として伝わり、版本となることはなかった。それだけ栽培者が少なかったということである。ただ『作伝法』の内容は大変高度で、今日にも通用すしている。また多くの草花で、銘鑑や番付が版行されているが、桜草の場合、尾張での文久元年(1861)の『桜草見立相撲』ただ一点あるのみである。

 桜草が世上に流行したと記されることもあるが、これも先輩諸氏の思い込みに過ぎない。

 それでは私の考える幕末・明治の桜草界の実態を述べてみよう。まずは『桜草名寄控』を取り上げよう

 [『桜草名寄控』の意味]『桜草名寄控』という帖面は、今から30数年前、山口聰博士によって野菜試験場久留米支場の図書館蔵書から発見されたものである。江戸は染井の植木屋・染植重の二代目伊藤重兵衛が手控として万延元年(1860)に作った品種名簿で、都合286品種載せられている。この貴重な文献はすぐに「浪華さくらそう会誌13号(昭和53年度)」に紹介された。 

 私は早くにこの文献のコピーを入手したが、時に取出して眺めるだけでその重要性に気付くことはなかった。つい最近、漢字の読みづらいところもあるので翻刻を試み、じっくり読み直してみると、今まで見落としていたことがいくつか浮かび上がってきた。

 第一には、前半と後半とでは手が変っていることである。前半は二代目伊藤重兵衛が1860年までの211品種を、後半は四代目伊藤重兵衛が明治21年(1888)までの75品種を書き加えている。特に後半の品種は江戸期の作出花とは言い切れない。

 第二には、前半の品種の中に、今日でも銘花として作り続けられている品種がすでに現出していることである。青海原、一天四海、紫がゞり、唐縮緬、伊達男、玉光梅、糸の綾、東鑑、金鶏鳥、楊貴妃、白鷲、丹頂、勇獅子、糸桜、満月などで、紅色、表白裏紅、薄紫、鑼弁、切弁、フリル弁、掴咲、抱咲、そして5センチを超える超大輪と、今日のめぼしい桜草の特色が出揃っている。

 [名寄控以前の桜草]それでは『桜草名寄控』より以前の桜草の姿はどんなものだったのだろうか。当時の桜草の花の写生貼がいくつか残っている。『桜草花品全』、『桜草勝花品』、『桜草写真』、『桜草花形帳』、『桜草花集』、『桜草百種』などだが、その絵から実際の姿を想像するのは難しい。唯一『サクラサウ』(渋江長伯による腊葉ー寛政年中※国会図書館蔵ー浪華会誌16号に影印あり)は押し花集(62品種)で,色は無理だが、実際の花形が知れる。切弁があり重弁も見られるが、花径はほとんどが3センチ以下である。しかもほとんどの品種は伝わっていない。

 さらに『桜草作伝法』に載る63品種のうち現存する蛇の目傘、銀世界、駅路の鈴、臥竜梅を見ても、色・花形ともに『桜草名寄控』の銘花に比ぶべくもない。

 寛政年間から始まった実生育種が,文化年間には新花の競い合いまでに発展するのだが、20年30年を経過しても、今日につながる銘花を産み出すまでには至らなかった。

 その一方、この当時の園芸界では朝顔や菊の華やかな世界が大きく展開していたことで、天保時代(1830〜)に入ると桜草への熱が冷め、『桜草作伝法』に“天保の頃相止”とあって連の活動も衰え、“今作り人少し”という状況になってしまう。

 [二代目伊藤重兵衛の事績]桜草は手入れもせず放っておくとすぐに消滅する。栽培を止めようとする連中は、これを出入りの植木屋に引き取ってもらったのであろう。あるいは植木屋が望んで譲ってもらったのかもしれない。その植木屋の代表格が染井の染植重・伊藤重兵衛である。

 植木屋は草花の取扱でも本職である。すぐさま例にならって実生を試みたに違いない。ところがここで思わぬことが起こったのである。それまでたいした変化を見せなかった桜草が,染植重のもとで一気に変わり始めたのである。多彩な色、巨大輪性、弁先の変化などなど。それまで細胞内部で眼に見えない形で起こっていた遺伝子変化がここにきて閾値に達し,一気に表面化したと考えられる。これは『桜草作伝法』の書かれた直後の1830〜1840年代にかけてのことであろう。

 これは植物の園芸化のおりによく見られることである。朝顔は奈良時代に薬種として導入されて以来数百年間ほとんど変化しなかった。室町期に入ってやっと白花が誕生すると、次第に変化が加速する。江戸末期には色変り、大輪性、変化性など見事な園芸種に成長する。花菖蒲も同様で、長く変化を見せなかったものが、松平定朝一代で作り上げられた。野生種から園芸品種が生まれるにはかなりの時間がかかる。種子を蒔けばすぐに変わりものが出てくるわけではない。

 なお少数とはいえなお栽培者が残っていたはずで、彼らによる新花作出ということもありうるのだが、もしそうだとしてもその新花をすぐに業者に渡すということは考え難い。これはやはり二代目伊藤重兵衛のもとで起こった出来事とするのが妥当で、それが『桜草名寄控』に結実したと考えてよい。

  染井の植木屋は広大な圃場をもち、樹木を養成して庭園需要に応ずる体制を整えていた。時代が下るとともに樹木だけでなく草花をも取り扱うようになる。その圃場は見本園として開放されており、花時には観客で賑わったという。染植重では生れ出た桜草の新花を段飾りにして展示したに違いない。とすぐに話題になったことであろう。

 [江戸の桜草の再興]

 そこで染植重の取扱っていた品種をもとにして、桜草の愛好団体が再び江戸の地に生まれることになる。それを一番組、二番組、三番組といったという。この二番組に柴山政富が属することになる。ただこれらの組がいつ頃できてどんな活動をしたか定かでない。

 [尾張・上方への広がり]

 上方は桜草栽培の発祥地であるが、江戸期の記録は至って少ない。その中に大坂の絵師中村芳中の扇面画がある。花鳥画では草花をまとめて表現するのが普通である。彼の場合は、様々な草花を扇面に単独で描いていて、桜草もその一つに取り上げられている。

 尾張では桜草の関する記録は全く伝わっていなかった。それが先年、文久元年(1861年)金城東で版行された『桜草見立相撲』が所蔵者の原一男氏によって紹介されて事情が一変した。そこには430種もの品種が載っていたのである。そして、糸桜・玉光梅・嵐山・緋の袴・香炉峰・楊貴妃・糸の綾・狩衣・青海原など染植重の『桜草名寄控』の前半と共通する名前が見出された。これらの品種は江戸起源であることが判っているので、染植重からやってきたものに間違いない。またこの番付には独自の品種が250種あまり見出される。これらは江戸からの品種をもとに尾張や上方で実生育種されたものと考えられるので、江戸系品種がすでに1840年代にはこの地に来ていたものものであろう。なお「漁火」や「思の侭」がこの番付と「名寄控(後半)」にある。もしかすると西方で生まれたものが、染植重のもとに里帰りし広まったのかもしれない。

 このように多くの独自の品種の存在、そしてなによりもこれだけの番付を版行・配布できたということは、江戸の地よりはるかに多くの栽培者が尾張や上方にいたと想定できるのである。

 [明治維新によるの衰退]

 せっかく尾張、上方や江戸での新しい動きが見られたにもかかわらず、維新の政治変動はこれを摘み取ってしまう。没落した武士は桜草どころではなくなり、作り手は地を払うありさま、一方西でも社会秩序の混乱のなかで栽培者を失い桜草は全く姿を消してしまう。

 [明治の復活]

 風前の灯火となっていた桜草であったが、柴山政富によって復活の緒がつけられた。柴山政富については中村理行氏による行き届いた調査がありそれによって紹介する(「伊藤重兵衛と柴山政愛の事蹟ーさくらそう会発会50年の会での発表要旨)。

 柴山政富は天保14年21才で家督相続し、一ツ橋徳川家に右筆奥詰として仕えた武家である。彼が若年の頃すでに桜草の‘連’は終焉を迎えており、その後再結成された‘二番組’に属したという。一ツ橋と言えば最後の将軍徳川慶喜の出た家だが、政富は幕藩体制の瓦解を上手に乗り切った。碌を離れても給地されていた江戸の郊外東大久保村で地主として生き残り、桜草栽培を続けることが出来た。

 その彼が、どんな伝手があったのか、皇居で二年続けて桜草の展示を行っている。これが出入りの貴顕の目に止まり、にわかに桜草が注目をあびることとなった。これがいつ頃か判らないが、彼が桜草番付『桜草比競』を明治11年に版行していることから、この前後のことであろうか。

 美しい花となれば作ってみたい、柴山政富に話を通す。しかし彼は師弟関係を結んだ門人にしか苗を分けなかったらしい。また『桜草比競』にはここにしかない品種がたくさん載せられている。これらは政富が実生育種したものであろうが、一代で絶えている。外へ出さなかったのである。

 ところで栽培法についてはすでに『桜草作伝法』があり、それが筆写されて普及することになる。版本にするにはなお需要がなかったのであろう。また筆写本の中には、桜草の飾り方の項目のないもの(白井本)があり、この時期の筆写の間にこれが増補されたものらしい。

 [4代目伊藤重兵衛の事績]社会の変動にも係わらず植木屋は健在であった。上層階層の交替によって新しい需要が生まれたためである。染植重では三代目が若死にしたため、明治3年伊藤常太郎が15才で家督相続して四代目重兵衛となり、家業とともに父祖以来の桜草栽培にも力が入れられる。柴山正富に袖にされた人々は、この染植重から桜草苗と鉢を購入したのである。ただ桜草はあまり商売にはならなかったようである。やはり桜草は敷居の高い植物であり、そうそう売れるものではなかった。その上に200も300もの品種を増殖維持しなければならない。染植重では商売抜きで桜草を育てていたのであろう。

 染植重では明治17年常太郎の名を取って「常春園」と名を改める。そして明治21年には「桜草名寄控」の後半がまとめられ、それをもとに「桜草銘鑑」が発行される。銘鑑ははそれまでの名前だけの番付方式ではなく、品種の簡単な特徴を記したものである。これはさらに明治32年には「櫻草銘鑑拾遺」が、そして明治40年には集大成した「櫻草銘鑑」が完成する。

 この四代目は人望の厚い人であったらしく、染井の代表として駒込の助役そして町長として世に尽す。しかし彼は植木屋として、職人であり園芸家であるとともに商人でもあったので、桜草界に対してはごく控えめな態度を取っていたようである。

 この常春園も四代目が大正5年に亡くなると、染井の都市化もあって、五代目によって廃業することになる。桜草は四代目の養子であった伊藤謙に受け継がれた。

 [柴山家の事績] 柴山正富は宮城での展示は行ったものの、江戸末期以来の閉鎖的な組の伝統を守って、自らの実生花は門外不出とし、栽培を伝授する門人にのみ分けたとされる。ただ門人を含めて毎年のように何棟もの屋形を組んで桜草を展示公開したのであった。その彼が明治24年に亡くなると、娘セツとその婿養子であった柴山政愛が桜草を受け継ぐ。セツは栽培を、政愛は渉外を受け持つ。政愛は大久保村の村長を務めるとともに、広報活動にも取り組み雑誌記事をいくつかものしている。セツが亡くなると、桜草は処分され、翌年政愛も亡くなる。

 [まとめ]これまでの記述を年代順に項目を並べて見ると左のようになる。大きな波が見て取れる。そのなかで桜草界にとって最大の功労者は染植重・伊藤重兵衛家である。桜草が滅びようとするとき、それを引き受けて栽培を続けた。それが思いがけず銘花の誕生をもたらすことになり、ここが発信元となり東西に渡って桜草栽培が広まった。業者のもとで新しい展開があったことが幸いしたのである。維新の変動・衰微下でも、ここで保存維持され復興の礎となる。染井の植木屋とそこから分譲を受けた人々が明治期の桜草界を支えることになった。といって栽培者は30名ほどであったという。

 明治時代の桜草界を牽引した伊藤重兵衛、そして柴山政富・セツ・政愛が亡くなって、一つの時代が終わる。
一八世紀末より  実生育種始まる

   文化元年     連による新花競始まる

   天保時代     連の終焉

    同       『桜草作伝法』の成立

   天保十年頃か   二代目伊藤重兵衛による実生育種により銘花誕生 

            実生新花の販売…江戸での桜草組が生まれる

                    尾張・上方へも

   万延元年1860  『桜草名寄控』前半なる

   文久元年1861  『桜草見立相撲』なる  

   明治維新     桜草界衰微 植木屋健在

   明治11頃     柴山正富が皇居で展示 

            『桜草比競』なるか

   明治21年     『桜草名寄控』後半なる

            『櫻草銘鑑』発行

   明治32年     『櫻草銘鑑拾遺』発行

   明治40年     『桜草銘鑑』発行
       
※一部訂補あり。2010.4.19